018 ハーモニカ

        
氷帝学園中等部男子テニス部顧問である榊太郎の携帯電話にメールが入っていた。
件名は『いつものように』と着いていて内容は一言だけ。『ピアノを借りるから』とだけ書いてある。
メールの相手は分かりやすい。『午後には帰る』と返事を打つと送信する。
榊が居るのは音楽室だ。

「……滝か」

「監督。今月分の部費の計算が出来たので――」

報告に来たのはテニス部三年の滝萩之介だ。部費の計算とは言っても、現在の部長である跡部景吾が日本有数の
金持ちであり、榊も金持ちであり、二人が部室の改装費を出したり合宿費を出したりしているので、
計算は必要は無いところもあるが、部費自体は氷帝学園からも出ている。滝が管理しているのは学園が出している部費だ。
言いかけた滝の言葉が止まったのは榊の携帯にメールが入ったからである。
画面にはこう書かれていた。
『集中するので別に帰ってこなくても良い。忙しいんでしょ。おじさん』
邪魔になるから帰ってくるなと言うことらしい。榊は画面を凝視する。返事は打つことを辞めておく。
携帯電話を榊はスーツのポケットにしまった。

「そこに置いておけ」

「分かりました……」

滝が困惑しているのはメールの相手が誰か気になっているからであろう。榊はプライベートは謎とされている。
ノートを机の上に置くと滝は後ずさりをするように音楽室を出た。
携帯電話の時計を確認すると時間は十一時、午後になるまではまだ時間がある。
今日は日曜日で部活自体は休みになっているが、個人練習に学園に来ている者も居た。
滝が持って来たノートを読んでから、音楽室を出て、練習をしている部員にアドバイスをした。
午後になり、榊は愛車であるジャガーに乗り込むと自宅へと帰る。自宅は都内にある高級マンションの上階だ。
家賃は一ヶ月で三十万以上はする。自宅のドアを開けると、女の物の靴が揃えられて置かれていて、
部屋にはピアノの音色が聞こえていた。スタインウェイのピアノの音色だ。
ピアノの音色は途中で止まりながら、少ししてまた奏でられている。ピアノが置いてある部屋へと榊は向かった。

「……あれ? おじさん、帰ってきたんだ。おかえり」

椅子に座り、伸びをしていたのはアーモンドブラウンの髪をした少女だった。
年齢は十代後半であり、太い縁の眼鏡をかけている髪の毛は二本の三つ編みにされていて先端はゴムで縛られている。
服装はミニスカートに白い上着にパーカーだ。

「歌織。部活はどうした」

「休みよ。うちの部活。基本は土日が休みなの」

彼女の名は大瀧歌織、榊の姪である。
聖ルドルフ学院に通っていて、女子テニス部の副部長をしていた。基本はとつけているのは休みは変動することがあるからだ。

「作曲に来たのか」

「スタインウェイの音源は持ってるけど、ピアノは弾きたくなるのよね……学院でも弾けるんだけど高級品弾きたいし」

自宅のことを歌織は言わなかった。彼女は普段は女子寮に住んでいるが、ルドルフ学院から歌織の自宅は近い。
ピアノも置いてあるのだが弾くピアノとしては数えていない。理由を榊は知っているので触れない。

「コンピューターでの作曲者としてはネットで人気であると聞いてはいるが」

「DTMね……それなりかな。作りたいものを作っているだけだから」

DTMはデスクトップミュージックの略であり、歌織はパソコンで作曲をすることが出来た。
彼女から説明を受けたことがあるがこのところのデスクトップミュージックの進化は著しいものがあり、ピアノにしても、
ピアノのあらゆる音を集めた音源がソフトウェアとして発売されていて、使えばピアノが弾けなくてもピアノの音が
使えるようになるらしい。ギターやドラムなどもそうだ。
歌織の音楽がネットで人気を博していると聞いたのは氷帝学園のお昼休みの放送の時に歌織が作っていた曲が流れたからだ。
榊の家で作曲していたメロディーが使われていて、唄はボーカルのソフトで作られたものであった。

「お前の唄は聞いていると元気が出てくるとか言われていたぞ。氷帝の放送でも流れていた」

「流してくれた人が居たのね。曲とかは気分によって何が出来るかは自分でも不明だけど……おじさんには感謝してるよ。
養育費とかあるから好きなだけソフトとか買えるし」

感謝の意味を込めて歌織は微笑した。
喜んでいるような、悲しんでいるような複雑な微笑だ。榊は歌織の後見人と言うことにはなっている。
歌織の両親と兄は四年前に交通事故で亡くなった。歌織の母親が榊の妹だったのだ。歌織の父親と結婚するために家を捨てた。
榊とはたびたび連絡は取っていた。大瀧家は一般的な家庭であった。
居眠り運転をしていた大型トラックと車が正面衝突し、三人は即死した。歌織が生き延びたのは体調を崩していて、
家で寝ていたからだ。
歌織は榊からは養育費と言う名の資金を貰っているので生活には困っていない。両親や兄の保険金の他にも、
父が残した遺産があるからだ。

「音楽は好きか」

「好きよ。絆だもの。テニスも好きだけど」

「テニスの方はどうだ」

「順調に部は強くなってる気がする」

家族との絆が音楽であると歌織は言った。死んでしまった歌織の母親は娘にピアノの弾き方や音楽の素晴らしさを教えていた。
テニスは歌織の兄がしていたのもあるが、彼女の幼なじみが落ち込んでいた歌織を引っ張り出すためにテニスを勧めた。
ルドルフは創立五年の新しい学院だ。まだまだ発展途上である。
歌織は椅子から立ち上がると手作りらしい大きめのトートバッグの中から大きめの封筒を一つとハーモニカを取り出した。
ハーモニカはオレンジ色のプラスティックのケースに入っている。

「ハーモニカか」

「今回の曲で使おうとしたんだけど、駄目ね。半音出ないから、保育園の卒園祝いよ」

歌織がハーモニカを持つと何度か振った。ケースに張られたシールにはクレヨンで歪な時で『おおたき かおり』と書かれている。

「半音を吹くには二本重ねて吹くか、それ用のハーモニカが必要だ」

「ピアニカとリコーダーの方がまだ役に立つかな。曲を作るには」

「何故持って来た」

「鞄に入れちゃったのよ。これ、綿とトキと赤澤と遊んでたときに使ってね」

綿は栗原綿雪、氷帝学園中等部の三年生であり生徒会副会長のことだ。
トキは村神時人で、聖ルドルフ学院三年の文芸部部長だ。赤澤は赤澤吉朗、男子テニス部の部長だ。歌織の幼なじみである。
ハーモニカを卒園祝いで貰ったものの、誰も吹き方が解らなかったので歌織が母親に聞いて簡単な曲ならば、
演奏出来るようになったのだ。

「今も吹けるのか?」

「吹けるわよ。きらきら星ぐらいなら」

歌織はケースからハーモニカを出すと手に乗せた。軽く握ると、演奏を始めた。
きらきら星は半音上げることも下げることもない。ピアノで言うと白い鍵盤だけで出来ている曲だ。
吹き慣れた曲なのか歌織は簡単に吹いた。

「……お前の母親はハーモニカも教えたのだな」

「?、おじさんは、吹けないの?」

「吹く気はない」

死んだ榊の妹と歌織はそっくりになってきていた。母子なので仕方がないのかも知れないが。
残された自分の姪に関しては出来る限りのことはしたいが、四年ほど経つとは言え、未だに対応が不明なところがある。
ハーモニカを鞄の上に置くと歌織は封筒を手に持つと榊に渡した。

「今、書いてる曲だけど、直せるところがあったら直してよ。今日中に」

「お前はこれからどうする?」

「コンビニでご飯買ってくるけど、いる?」

「……コンビニで買うぐらいなら頼んで持ってこさせる。お前も待っていろ」

歌織はジャンクフードが好きだ。アレルギー持ちであるために食品表示がきちんと確かめて買っているが、料理をしている
ところを榊は見たことがない。赤澤が言うには歌織の料理が不味すぎるために彼女料理の腕を知る者は料理をさせない。

「そば粉とピーナッツとブドウと海老は抜いてね」

榊が携帯電話を出す中で歌織が声をかける。どれも食べたら体調不良を起こしたり、もしくは食べたら死ぬものだ。

「午後になったら出かけるか? 好きなところに連れて行ってやるが」

「遠出しようね。勘違いされるの嫌だから……あ、ぜんざいPからメールが来てる。パソコン貸して」

「ぜんざい?」

「ネットで共作することもあるボカロP、あたしはスタインとは名乗ってるけど、元ネタはそのピアノね」

携帯電話を出してメールをチェックしていた歌織は榊からパソコンを借りるとだけ言うとパソコンが置いてある
部屋へと移動した。スタインウェイのピアノは一千万以上はするピアノである。
付き合いが疎遠になりやすい二人だがスタインウェイのピアノを歌織が弾きに来ることで繋がりは維持されていた。
榊は携帯電話を操作すると中に写真を携帯のカメラで撮影した画像を携帯電話の画面に映した。
十代の頃の榊と妹が一緒に芝生に座りながら写っている写真だ。

「お前の娘は今日も元気だ。安心しろ」

呟くと榊は携帯電話を操作して昼食の注文を始めた。


【Fin】

ハーモニカは歌織は吹けますがDTMするときは音源使います。それでも追いつかないときは自分で、テニスしてないよね……

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