070 ベネチアングラス
「ムラーノグラスが欲しい」
「……お得意様とかに出すには良いね。ムラーノグラス」
ある日のお昼休み、休息を取っていた俺たちであったがエルジュが唐突に水を飲みながら言いだした。
サマエルが同意する。
店はお昼のランチ時が終わり、ざっと掃除をし終わって、全員が適当に席に座り、遅めの昼食を取っていた。
「なんだその、ムラーノグラスってのは」
俺、黒崎一護はエルジュとサマエルが何を欲しがっているのか解らずに聞いた。グラスと言うことにはコップか何かだとは
解るのだが、コップであるならば店を開店させる時に一通り揃えたはずだ。
「ヴェネツィアングラスと言えば解りますか? 一護くん」
「それなら知ってるぜ。高いグラスだろ」
「ムラーノ島で作られているのでムラーノグラス。グラスと言ってもヴェネツィアで作られたガラス製品の総称だから」
ヴェネツィアグラスとか別名で呼ばれていることもあるだろうが、俺も名前ぐらいは知っていた。
イタリアにあるヴェネツィアの地理についてはざっぱにアディシアとかから聞いたことがあるが、島なんだよぐらいしか
教えてくれなかった。補足してくれたのはオルトさんこと、オルトルート・ストリンドヴァリさんだ。
「ネオ・ヴェネツィアでも作ってるらしいんだ。店を見てきてくれよ。一護とオルト」
俺たちが今いるところは現代世界から三百年ほど経った火星だ。火星に地球のイタリアにあった都市、ヴェネツィアを再現した
ネオ・ヴェネツィアである。ここに飛ばされた俺たちは喫茶店兼レストランを経営しつつ、生活している。
帰られるタイミングは何時か来るらしいのでそれまで暮らしていた。店はエルジュとサマエルが料理を作り、俺やオルトさんが
運んでいる。
「……言った本人が見に行けよ」
「ボクが見に行くと金に糸目はつけないし、人混み嫌いなんだよ。殺したくなる」
平和なネオ・ヴェネツィアに殺人なんて持ち込むなと俺は言いたくはなる。冗談だ、とエルジュは笑った。
この世界ぐらいは冗談にして欲しい。
「エルジュはザル勘定だから……サマエル君は?」
「俺は占いを頼まれてるし」
サマエルのタロットカード占いってのはもの凄く当たる。占うタイミングとかは自然と解るらしい。ネオ・ヴェネツィアでも
始めたら顧客が着いてきたようだ。
エルジュが欲しいもののリストを書くと言いだしてテーブルの上で書き出す。どうやら、俺とオルトさんで買い物に
行くことになりそうだ。我が儘だ、と俺が思っていると店のドアが開く。
『CLOSED』の札はかけてあったはずなんだが……。
「ご飯、食べさせてー」
「お邪魔します」
「にゅ」
「アディシアに灯里にアリア社長……そうだ。灯里に聞けば、ムラーノ……ヴェネツィアグラスの店、知らないか?」
店に入ってきたのがこの街の観光客専門のゴンドラ漕ぎ水先案内人(ウンディーネ)の二人と火星猫の一匹だ。
Ariaカンパニーの面々である。社長である火星猫のアリア……伝統とかで水先案内にの店は青い眼の猫を社長にする
風習がある……と桃色の髪をした水無灯里、空色の髪をしたアディシアだ。アディシアは俺たちと一緒にこの世界に飛ばされて、
今はAriaカンパニーで一人前の水先案内人を目指していた。
店は休憩中であるがAriaカンパニーの面々は注文を聞く。世話になってるしな。
「ヴェネツィアグラス……?」
「店で使うことにしたんだけどさ。知らない?」
ここの流儀だとネオ・ヴェネツィアグラスとかつけた方がいいんだろうが、灯里は俺たちの事情、過去の地球から
タイムスリップしてきたと言うことを知っている。本当はパラレルワールドも着くがややこしいので説明は省いていた。
サマエルが事情を続けた。アディシアはランチセットを二人分頼んで適当な席に座っている。
「職人さんなら知ってるよ」
「場所を教えてくれねーか。頼みに行きたい」
「案内するよ。午後からは私はオフで、アディシアの練習に付き合うつもりだったし。アディちゃん……良い?」
「Si。ネオ・ヴェネツィアグラス見てみたいから」
灯里が職人を知っていたので案内を頼むと灯里本人が連れて行ってくれることになった。ありがたい。
ネオ・ヴェネツィアは迷いやすい。路地が複雑に入り組んでいる。灯里もアディシアが座っている席の前に座り、
ランチセットを注文した。エルジュがキッチンに移動して、頼まれたランチセットを作っている。
「午前中は何してたんだ」
「灯里さんの手伝い。接客の勉強」
アディシアは水先案内人としては現在半人前だ。水先案内人の腕前は手袋で解る。アディシアは左手だけに手袋をつけていた。
片手袋(シングル)だ。両手袋だとペアになり、一人前だとプリマ。ゴンドラを一通り漕げるようになれば、片手袋にはなれるが、
そこから先は接客や舟歌(カンツォーネ)も入ってくるため時間がかかる。
「にゅ」
「アリア社長も見に行きたいのか」
「一緒に行きましょうね。アリア社長」
パンとサラダだけを先にサマエルが持って来てアディシア達のテーブルの上に置いた。アリア社長にも前菜を置いていた。
アリア社長は食事が待ちきれないのか目を輝かせていた。食べ過ぎはメタボになるぞ。
白いゴンドラに乗り、俺たちは灯里の案内で職人の元へと向かう。
ネオ・ヴェネツィアは車での移動が禁止されているため移動はゴンドラか徒歩だ。ゴンドラには俺とアディシア、オルトさんと
アリア社長が乗っている。
「ムラーノグラスもピンキリだけど良いのは欲しいしね」
「……お前やサマエルやエルジュもそうだがムラーノって言うんだな」
「ヴェネツィアグラスは全てムラーノで作られてたんだよ。ここはどうか知らないけど」
「グラスの名産地ね……材料でも取れたのかよ」
「前にヴェネツィアの歴史は軽く話したはずだけど……」
アディシアが暇なのかヴェネツィアグラスについて教えてくれた。
ヴェネツィアという都市は貿易の都である。これは俺も前に聴いた。西ローマ帝国と東ローマ帝国、つまりは西洋と東洋が
混じっていたのがヴェネツィアであり、東洋からガラス加工技術が伝わってきた。
ムラーノ島がガラスの名産地になった理由としてはそこに職人をかき集めたからである。ガラスの加工には火が居るため、
火事の恐れがあるためだ。ヴェネツィアという国際貿易都市がバックにあり、市場も確立していたため、
良い材料や良い技術が入り、ガラス細工は発展した。
「そう考えると場所が良かったんだな」
「地理条件は大事ですよ」
「ヴェネツィアにとっても貴重な外貨をもたらすグラスだったからか職人達をかき集めた後で島に閉じ込めたりしたけどね」
外に秘密が漏れることを畏れ、また競争相手を産まないために職人達はムラーノ島に閉じ込められたらしい。
逃げようとした職人は捕まって厳しい罰……死罪が当たったそうだ。
「……脱走に成功した人は居なかったのか?」
「勿論、居たよ。逃げた職人達はイタリア各地で技術を伝えた。他の地方で作られたヴェネツィア様式のグラスをファソン・ド・
ヴーニスと言うんだけど……補足しとくとヴェネツィア以外にもガラス作ってるからね。イタリア」
「閉じ込めといてよく技術が発展するもんだな」
「ムチばかりじゃ駄目なんだよ。ここで重要になるのはプリヴィレジョ」
プリヴィレジョというのはムチじゃなくてアメである。
新しい技術を開発した者にアルテ……職人組合みたいなものらしい……がその技術の独占権を十年間与えると言うものだ。
希少価値が生まれたグラスは値が上がり、数々の技術が開発された。
「でもよ。この時代だとヴェネツィアは沈んだんだよな……技術とかなくなってるんじゃないのか?」
「はい。ガラス職人さんたちも散り散りになったんですって。職人さん達も復活させるのが大変だったって聞いてます」
地球にあるヴェネツィアは高潮現象で沈んでしまった。アディシアは予想していたことらしく別に驚きはしていなかったのを
記憶している。今も沈みかけていてるらしいからな。
培った技術が失われるのはあっという間だ。
火星にネオ・ヴェネツィアを作る話が持ち上がり、ヴェネツィアグラスを復活させようと言う動きがあった。
文献資料を集め、当時のことを知っている人に聞き込んだりして、どうにか今の形に持って来たのだと灯里が教えてくれた。
「無くなるのはしょうがない。ムラーノグラスは一子相伝だから」
「技術書いてる紙とか無かったわけだな……」
「……あったとしても少ないはずだから復活させた職人さん達は凄い」
アディシアが断言している。
ドラマとかで陶芸の窯元とかで技術が一子相伝とかみたことがあるが、ヴェネツィアグラスもそうだったのだろう。
ムラーノ島は保守的な島だとアディシアが話した。イタリア人の気質なども関係しているらしい。
日本人と違って国とかよりも家族や個人が大事なんだそうだ。
「詳しいよな。お前、ヴェネツィアのこととか……イタリア人だからか?」
「教わったの……退屈じゃなかった? 話」
「退屈じゃないよ。地球のヴェネツィアの話が聞けて面白いなって」
教わった、という点でアディシアは嘆息していた。
解りやすく説明してくれたので俺も話は退屈ではなかったし、灯里は楽しんで聞いていた。口を挟まなかったオルトさんはと
言うとアリア社長をずっとなで回していた。聞いていなかったのは知っていたからだろう。
ゴンドラにしばらく揺られて、着いたところは灯里が知っている職人の工房の近くだ。俺たちはゴンドラから下りると
歩いていく。工房の前に行くと誰か居た。
「灯里さん」
「こんにちは。アントン君」
「……職人か?」
「ピアッツァじゃないの?」
灯里がアントン君と呼んだのは帽子を被った黒髪の男だった。見た目からして十代後半ぐらいから二十代ぐらい、
ピアッツァというのは助手のことを言って職人はマエストロというそうだ。灯里が話をつけてくれていた。
「そちらの人たちがネオ・ヴェネツィアングラスが欲しいと……」
「オルトルート・ストリンドヴァリです。こちらは黒崎一護くんです」
「この子はアディちゃんこと、アディシア。Ariaカンパニーの社員なんだ」
「こんにちは。始めまして」
アディシアが頭を下げていたので俺も頭を下げる。
「J・J・アンソンです。親方は中に居るので」
工房の中に入ると、熱かった。
ガラス細工のために熱量が必要なことは解るが、熱いために俺は服の裾を捲る。テーブルの上にはネオ・ヴェネツィアングラスの
コップが置かれていた。コップは赤と黄色と透明で塗り分けられている。
「カラフルだな……こっちは皿か」
持つと怖いので遠くから眺める。アディシアは割らないように手に取っていた。
「……良い出来……サマエルやエルジュも満足してくれるよ」
「イタリア人のお前が満足するなら……良いんだろうな」
ガラスの価値など俺には解らない。オルトさんが職人さんと話しているから任せておくつもりではあった。
『放棄はいけないわよ。死神代行……価値を見られる目ぐらいはつけておきなさい』
「うわ!?」
耳元に囁くような声、俺は驚いて叫び声をあげてしまう。全員がいっせいに俺を見た。
「一護くん……?」
「グ、グラス落としそうだったからよ。皿とかコップとか多いなって、どれもカラフルだし、綺麗だ。俺、グラスとかわからねーけど、良いって感じる。これなんて花いっぱいだし」
「それはミルフィオーリ、イタリア語で千の花を意味します」
灯里に聞かれたので俺は誤魔化した。必死で感想を言う。
オルトさんは呆れた顔で、アディシアもそうである。
二人とも、俺じゃなくて話しかけてきた奴に呆れているようだった。……そうしておこう。俺は二人と違って話しかけられるのに
慣れてない。
俺は緑色の皿を手に取った。サラダとか載せるのに使えそうな大きいガラスの皿である。
オルトさんが教えてくれた。隣にも似たような緑色の皿があるが微妙に違う。
「……すげーよな。こんなの作れるなんて……どう作るんだ?」
「兄ちゃん、興味が有るのか」
「工房に来るのは初めてだし、ガラス作りなんて見る機会が無かったからよ」
ガラス工房なんて見に行く機会がなかったし、作るなら尚更だ。テレビでは見たことはあるが……あんまり覚えていない。
親方さんは俺の言葉に楽しそうに笑う。
「何なら作ってみるか?」
「親方」
「うちのグラスを気に入ってくれたんだ。体験していって構わない」
交渉はオルトさんがやっていてくれたらしい。これには俺だけではなく、アディシアやオルトさんも驚いていた。
ヴェネツィアングラスの作り方ってのは門外不出で、一般人が工房に入れることなんて無かったみたいだし、
作らせて貰えるとは思っていなかったのだろう。
「私、作りたいです!……私も作って良いんですよね……作ってみたい!」
「体験すると良い」
「やったぁ!」
灯里が喜んでいた。反応したのは灯里だけであり、アディシアやオルトさんは反応が遅れている。
「……理論は知ってるけど……」
「上手く出来るかな……」
「やってみようぜ。せっかくだしよ。俺たちで使う分なら問題ないし」
店に出す訳じゃ無いしな。
「にゅ!」
「……アリア社長は、無理だ」
張り切るアリア社長に俺は言う。アリア社長は途端に落ち込んでいた。届かないだろ、窯に棒とか、息とかも足りないしよ。
励ますために灯里がアリア社長のためにネオ・ヴェネツィアングラスのご飯皿を作ると言うことで話は纏まった。
俺たちが挑戦してみたのはミッレ・フィオーリ技法で作る皿だ。
花の一つ一つはムリーネと言う。ムリーネはあらかじめ窯で暖めておき、まず本体のガラスを窯の中から棒で回して
巻き取る。窯の熱気で熱くて目が開けていられない。巻き取ったガラスの形を転がして整えたら
とにかく回し続ける。少しでも冷めたら温め直して出したらすぐに吹く。
タイミングは親方が教えてくれたが難しい。形が整ったらまた吹いて先を切り、口を少し広げる。
「……歪んでるよな……微妙に」
「初めてにしては凄いです。ムリーネの種類でもガラスの動き方って違うから、解ってないと形が作れないし」
「職人さすがだ……」
「次は私です」
俺が作った皿は家で使う用と割り切って作ったが、歪んでいた。丸くないし。
アントンが褒めてくれた。理想的な形を作るには修行なんだろうな……やっぱり。
灯里やアディシア、オルトさんも挑戦してみたが灯里は慌てまくっていて周囲の助けも借りてどうにか作り、
アディシアとオルトさんも似たようなものだった。
皿は二日ほど冷やすことになり、引き取る時にあわせて俺たちの店使うためのグラスも作っておいてくれるそうだ。
親方の好意でムリーネ作りにも挑戦させてもらった。俺が持つガラスを巻いた棒をアントンが金属のハサミみたいなので
先端を切る。
細いガラスは数メートル簡単に伸びた。
「伸びた!」
「……金太郎飴みたいだよな」
「金太郎飴?」
「昔にそう言う飴があったんだよ。何処を切っても同じ飴」
ガラスの棒を冷やして固めて切って完成だ。金太郎飴という言葉を灯里が聞き返す。未来に金太郎飴はないらしい。
あるいは知らないのか。灯里は整備された地球出身だからな。体験させて貰ったことに俺たちは礼を言うと帰ることにした。
帰りはアントンが着いてきてくれていた。
「職人さんたちは凄いよね」
「修行のたまものといった感じで」
灯里とオルトさんが話していた。ネオ・ヴェネツィアングラスの皿のできばえはと言うと灯里とオルトさんのは
似たような感じだった。どんな感じだったかというと……聞かない方がいい。
足下ではアリア社長が歩いている。
「今日は楽しかったぜ。ありがとな」
「いえ。ボクも楽しかったので……」
「灯里さんと知り合いだったけど、どんな経緯で知り合ったの?」
アディシアがアントンに質問をするとアントンが教えてくれた。アントンの工房のお得意様の貿易商の人が
ネオ・ヴェネツィアングラスを運ぶために灯里のゴンドラを指名したらしく、その時に知り合ったそうだ。
割れやすいからゴンドラでの運搬が良いらしい。ネオ・ヴェネツィアングラスには一部の人間が所詮は猿真似と言っているらしく、
アントンはそのことをずっと気にしていたのだが灯里の言葉に救われたそうだ。
「物の価値ってのは人それぞれだしね……あたしはネオ・ヴェネツィアングラスは好きだよ……誇りを持ってるじゃない」
「誇りか…俺もそう想う。…親方さん、いい人達だしな。今度、店にも来てくれよ。ランチご馳走するなら。
親方さんにも言っといてくれ」
「はい。ありがとうございます」
「こっちの無理も聞いて貰えたしさ」
船着き場でアントンと別れる。灯里の運転で俺たちは帰った。運河にはいくつものゴンドラが走っている。
「……楽しかったかな。作られて……知識は叩き込まれたけど作ることまではしてなかったし」
「俺もだ。楽しかった」
アディシアは暗殺者として育てられて、必要な知識は……表向きに社交辞令とかで使える知識は教わったらしいが、
体験はそんなにしていなかったらしい。呟いた言葉は嬉しそうだった。俺が同意するとオルトさんも話し出す。
「みんな楽しめましたよね」
「お皿、引き取りに行くのが楽しみです」
「にゅー」
灯里もアリア社長も幸せそうだった。
有意義ってこういうことを言うんだろうな。
【Fin】
参考資料はイタリア旅行記など。アディは知識:イタリアとかは持ってますが持ってるだけです
もどる