その目が見る世界は

        
グラウンドで二年生の男子生徒が走っていた。陸上の練習をしているらしい。
面倒なことに陸上部ではなくても陸上をしなくてはならない。多分、記録でも測っているのだろう。
忍足侑士は窓の外の光景を眺めていた。彼のクラスでは、国語をしていた。学校にもようやく慣れてきた頃の国語だ。
四月に入学をしてから一ヶ月ほど経って、ようやく回りも、忍足も慣れてきた。五時間目の授業は
お昼御飯を食べた後なので、回りは眠そうにしている。忍足も眠りと闘っていた。

「忍足、そこを読め」

国語教師である紅綯梗崋が忍足を指名した。忍足は立ち上がると、教科書の内容を読み始める。
そことだけ言われているがどうにか授業を聴いていた。

「二年の留学中ただ一度倫敦塔を見物した事がある。その後再び行こうと思った日もあるがやめにした。
人から誘われた事もあるが断った。一度で得た記憶を二返目に打壊わすのは惜しい、
三たび目に拭い去るのはもっとも残念だ。「塔」の見物は一度に限ると思う」

教科書に書いてあったのは夏目漱石の倫敦塔だ。
こんなのよりも忍足は恋愛小説が良いのだが夏目漱石で恋愛小説というと『こころ』ぐらいしか浮かばない。
読みながら平和だ、と想う。こうして教科書を読んでいるのもいい。
住み慣れた京都を離れるのは厭だったが、住んでみると東京も以外と良い場所である。
京都や大阪には適わないけれども。
読み終わってから、講義が入りノートに内容を書いているとチャイムが鳴って授業が終わった。
六時間目のけ授業をこなせば、部活になる。
部活は男子硬式テニス部だ。テニスは小学生の頃からずっとしていたので中学生になってもしている。
氷帝学園の男子硬式テニス部は規模が大きく何度も全国に行っているらしい。完全実力主義だそうだ。

「……次は、何やったかな?英語のグループ……めんどいな」

英語はグループで何かをするらしいが、忍足は可能な限り人付き合いを避けるようにしていた。
授業をヤルのが面倒だったので忍足は授業をサボることにして、教室を抜け出した。



屋上の階段を上がる。屋上に通じる扉は鍵がかかっていた。さらにその上からチェーンが巻かれている。
チェーンに着いているのは面倒なことにナンバー式の鍵だ。三桁のナンバーで組み合わせを考えると、
千通りかその辺あるだろうし当てずっぽうで当てられるほど忍足の勘は鋭くはないのだ。

「また壊すか……」

言うと忍足はポケットからナイフを取り出す。刃が飛び出す式のナイフを握りしめると、
忍足は巻かれている鎖を見つめた。しばらく見続けてから、忍足は軽くナイフを滑らせた。
何かをなぞるように動かすと、鎖はあっけなく、切り裂かれて落ちた。
ナイフを一回だけ走らせただけで鎖が切れるはずがない。それ以前に鉄の鎖を鉄のナイフで切ることは出来ない。
傷は付けられるかも知れないが、完全に切断をするのは無理だ。ましてや、切れた鎖は滑らかな切断面をしていた。
丁寧に忍足は鎖を外すと、屋上の扉を開けた。ナイフを折り畳むとポケットの中にしまい屋上へと行く。
鎖は適当に丸めると、ポケットに入れた。屋上の日当たりは良かった。

「ものすごく下らんことに使たな。能力」

忍足は言うと、梯子を登り、給水塔に寄りかかる。
京都にいた頃……小学生の時だ。忍足は大事故に巻き込まれて、命が奇跡的に助かったのだが、その代わりに奇妙な能力を得た。
昏睡状態から目覚めた忍足の見た世界は、例えるなら、ゆで卵をぶつけたように、ヒビが入っていたのだ。
壁にもベッドにも窓にも天井にも見舞いに来た父親や母親、姉にも見えた。
後に忍足は知った。
それは物の壊れやすい線。物の寿命が線の形となって見えるようになったのだ。
殺す線、と言うべきだろうか。そこを切り、断てば例え生きていようと死滅するのだ。
死と言うよりも寿命を見ているというのが正しいのかも知れない。そこを切れば、どんなに頑丈な物でも死ぬ。
人間であってもだ。

「……空、晴れとるなぁ……」

空は晴れていて、昔のことを忍足は考えていた。始めは、視覚を制御を出来なかった。
線だらけの世界を見ていた忍足は精神的に危うかったのだ。周りが死で囲まれている。呆気ない世界を見ている。
そこを切れば、どんなに頑丈なものでも壊れてしまうし見えているのは忍足だけだ。
ある人の助けがなければこうして、普通の生活をすることだって出来なかっただろう……今でも、感謝をしている。
六限目が終わるまで暇を潰すと、掃除の時間が始まった。掃除には出ることにした。
階段を下りていく。これが終わったら部活なのだ。
忍足は一年生の中でも一目を置かれていた。
関西にいた頃は従弟に誘われてやっていたテニスであるが肌に合っていたので続けていた。
目立たないように振る舞おうとしていたのにある出来事が契機で目立つようになってしまった。
そのせいか、一部から疎まれていることも知っている。
六時間目はずっと給水塔で過ごした。誰も来なかった。授業が終わってから忍足は教室へと戻る。

「侑ちゃん!!」

「……ジローか……」

「サボっちゃって、ダメだよ。俺だって寝ていたけど」

戻っていると忍足は声をかけられた。
寝ていることとサボっていること、一体どっちが教師の反感を買うだろうかと忍足は考えていた。
ジローこと芥川慈郎は忍足の幼稚園の頃の知り合いだ。中学校で再会をしてからと言うもの、忍足に構うようになった。

「面倒なんや」

「何か、侑ちゃんさ……昔と変わったね」

「あのなぁ、幼稚園から今までどれぐらいの時間が過ぎたと想とるんや?」

変わった、と言うと人を遠ざけようとしているところだろうか。
あるいは人の中にいても混ざり合おうとはせず、埋もれるようにしようとしているところか。
ジローはあの事件のことを知らない。忍足の能力を知らない。こんな能力の事なんて、知らなくてもいい。
上手く、誤魔化しておいた。



忍足は、倉庫の中にいた。
閉じこめられたと言った方が正しいだろう。テニスバックと鞄を地面に置くと、座り込んだ。
掃除から帰ると手紙があって倉庫に来いと書いてあったので倉庫へと行き、中に入ると、扉が閉まり、
鍵がかかり、閉じこめられた。意図的にやられた。

「……旧倉庫か」

想い出していた。旧倉庫は鍵が壊れているとかどうとかで入っては行けないと教室でも言われていたし
集会でも言われていた。普通なら取り乱したりするところなのだが、忍足は取り乱すことがなかった。
人間の気配を確かめると誰の気配もない。
旧倉庫内を見ると、曇り硝子の窓があって、中に要らないものが大量に放り込まれていた。

「要らないもの……か……」

精神状態が安定するまでの忍足は両親や医者を困らせていた。
能力で始めて壊してしまったのは、花瓶だ。
叔母が持ってきてくれた花が生けてあるガラスの花瓶で、見えた黒い線を鉛筆でなぞってみたら、
花瓶や花が切れて壊れた。
医者に問いつめられて、両親にその事を話しても信じて貰えない。
それよりも、もっと怖かったのは世界がこんなにも死で溢れていて壊れやすいと言うことだ。
立っている地面に黒い線が出ている。壁にも、草にも、建物にも……それをなぞれば、壊れてしまうのだ。
怖くて、怖くてしょうがなくて、病院を抜け出して、街を彷徨っていた。
街にも黒い線があって、泣きそうになってしまった。或いは、とっくに泣いていたのかも知れない。
その時に……逢ったのだ。

『どうしたんだ?』

見上げたその表情と声は今でも記憶に鮮明に残っている。頭を撫でてくれた手も………。
忍足よりも五歳ほど上だった青年は、忍足の恩人だ。目のことについても考えてくれて制御の仕方も
教わった。彼はそう言った事に明るかったが忍足も深くは聴いていない。
色々なことを教えてくれた。
ずっと一人で居て時計を見ると、二時間ほど経っていた。
このまま部活に行っていても、まだ問題になりそうなので家に帰ることにした。
帰りたい気分になったのだ。

「外からやないと、カギは開けらんから……」

携帯電話は持たされてはいるが親に連絡をしたくはなかったし、携帯電話に登録されている同級生にも
連絡は入れたくなかった。ややこしいことになる。
自力脱出しようと忍足はポケットからナイフを取り出すと、ドアを見た。
しばらく見ていると、黒い線がドアに走っている。手頃な線を見つけると、ナイフを突き刺す。
豆腐に包丁を入れるようにすんなりと刃先はドアに入る。入れながら忍足は線に沿ってナイフをすべらせる。
呆気なく切れていき、ドアは一気に壊れた。
線は無造作に見えるので、四角に切るとか器用なことはそんなに出来ないため、自分が出るスペースを作る。
扉を切り裂いたのは単に気分の問題だ。破壊したい気分だったのだ。
忍足は解体した扉から外に出た。

「ゆ、侑ちゃん……?」

出たときに声が耳に届き、固まる。扉の側にはジローが居たからだ。ジローが忍足の両腕を
自分の腕に握った。

「今の何?何をしたの?どうやったの?どうしたの?」

ジローは……ジローでなくても聞いてしまいそうになる。それもそのはずだ。
鍵を開けるか、鉄球でも持ち出さないと壊れない旧倉庫の扉が、ナイフ一本で鮮やかに切り裂かれたのだ。
忍足は呆然とジローを見ていたが、意志を持ち直すとナイフの刃を戻した。

「待って、教えてよ」

ジローは忍足の腕を掴んだ。駆け出そうにもジローが渾身の力で押さえつけている。

「……信じへんやろ。言っても」

「意味が解らないかもしれないけど、信じる」

自信を持ってジローは言う。忍足は虚を突かれた。



「と言うわけや」

ちゃんと話すと言った後で忍足は倉庫の扉の線をあるだけなぞり解体して、細かい破片にしてから、
燃えないゴミに押し込んで場所を移した。
氷帝学園から離れた児童公園に来て、自分の目のことについて話す。
忍足は話さないとジローは引かないだろうと、話してしまった。
事故に遭ってしまい、死の線が見えるようになってしまったことをだ。

「辛くなかった?」

「……今は、大丈夫や」

ジローが言うには、忍足がいつまで経っても部活に来なくて家に電話をかけたが帰っても居なかった。
探していると忍足が旧倉庫の方に行ったという話を聞いたので、見に来たらしい。

「こうしていても見えるの?」

「いや、切り替えられるようになった。今は普通に見えとるで」

視界は制御出来るようになったが危ういものだ。気を緩めてしまったりするとすぐに線が見えてしまう。
伊達眼鏡は視界を分けるためにかけているようなものだ。

「だから人を遠ざけようとしていたの?」

「そんなところやな。不気味やろ。物を壊す……いや、殺す能力なんてな。人間だって殺せるんやで。それも確実に」

知らない間に忍足は大変なものを抱え込んでいた。それと戦い続けていたのだ。
世界がこんなに壊れやすい、それも線をなぞってしまえば死んでしまうのだから。
小学校の頃も人付き合いを最低限にして、中学生になってもそれを実行しようとしていたが、上手くは行っていない。
自嘲気味に言う忍足の両手をジローが握った。

「あのね、心配しないでよ。何があっても、俺は侑ちゃんの味方だからさ」

満面の笑顔でジローは忍足に力強く言う。
いつもの眠たそうにしているジローとは大違いだ。
忍足がそんな能力を持っていようとも、ジローにとって忍足は友達なのだ。話を聞いた後もそれは変わらない。
自分に向けられた笑顔を見たジローは肩の荷が下りたような安らいだ顔をしていた。

「ありがとな。ジロー……それとお前さ。何かずれとるわ」

「侑ちゃん……侑ちゃんが言える台詞じゃない」

二人はしばらくお互いを見つめ合った後で、笑う。

「奢るわ。食べたいもんがあったら言って」

「タコ焼き!」

「……家で作った方がええかもな」

タコ焼きは関西の領分だ。
ジローなら自宅に招いても良いだろうと考えて忍足はテニスバックと鞄を持つ。ジローという支えが出来たことで
忍足の心にあった重さが消えて、今は、軽い。


【Fin】

リメイクをしたのは今頃ですが。テニ王はあそこまでぶっ飛ぶとは同時は想わなかったんだ。忍足とジローは幼稚園の幼なじみ設定です

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